| 2008.7.1 ヨハネの手紙Ⅰ 3:21~22 |
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2008.7.1 ヨハネの手紙第一 3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前 で確信を持つことができ、 3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御 心に適うことを行っているからです。 *** 愛し愛されながら生きるという喜びは、「心に責められることがない」関係 の中に生まれます。私たちは、神様との関係においても、心に責められるこ とのない状況が提供されています。自分の中には不足意識が常にありますが、 それは事実であって、疚しい(やましい)ものではありません。神に対して 隠し事をせずに生きられたら、それが一番良いのです。心を責められる状況 から、解放してくださったのは神様ご自身です。責めも咎めもキリストの十 字架によって処分してくださいました。 ヨハネは大胆に「わたしたちが神の掟を守り、御心にかなうことを行ってい る」と書いていますが、これは、実は、私たちが自信を持って断言できる言 葉ではなく、神様がそういうふうに見なして下さっているということです。 自分は神の掟を守りぬいており、御心にかなった生き方以外はしていないと 断言できる人の背後に神の愛を私はあまり感じません。そういう発言の中に は、神の愛の世界に生かされているという謙遜さが感じられないからです。 私たちは赦された罪人に過ぎないのです。完成された聖人ではありません。 苦悩や葛藤、不足感は常に目の前にあります。キリストの憐れみを常に必要 としているのです。 神が、そういう私たちを「赦す」と宣言してくださって、生かしてくださっ ています。それゆえ、私たちの存在そのものも、行為も、受け入れられてい るのです。おどおど生きるのではなく、自由に生きて良いのです。しかし、 その自由は自分の信仰で勝ち取った自由ではなく、資格などないのに与えら れた恵みとしての自由なのです。信じたから、その信仰の大きさで救われた わけではないのです。赦すと言ってくださる神の大きな愛があるから救われ るのです。私たちには純粋な信仰など、カラシ種ほどもないかもしれません。 あるのは信仰という名の自己主張ばかりのような気がします。にもかかわら ず、神は「私はあなたを知っており、私はあなたを愛している」と言ってく ださるのです。そして神はキリストの十字架を通して私たちを見てくださる のです。 祝福がありますように。関根一夫 |
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