logo

2010.02.07 MACF礼拝説教 プリント メール

MACF礼拝説教

2010.02.07

 

「神の恵みはいろいろな形で」

使徒言行録

8:4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

8:6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってそ

の話に聞き入った。

8:7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声

で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしても

らった。

8:8 町の人々は大変喜んだ。

++++

8章の中には、主にフィリポという人の宣教活動が記録されています。こ

のフィリポはステファノと一緒に世話役として選ばれた7人のうちのひと

りです。

さて、8章には三種類の伝道のアプローチがあったことを知ることができ

ます。

 

1)癒し

フィリポはサマリアに向かいました。エルサレム在住の生粋のユダヤ人

と、サマリアの人との関係には歴史的な遺恨があったので険悪だったと

言われています。サマリア人は、ユダヤ人と異民族との混血民族だった

からです。また、特にエルサレム中心主義のユダヤ人とゲリジム山を聖

地とするサマリア人との間には、いわば聖地の本家争いがあり、問題が

複雑になっていました。

フィリポは彼らのところに行きましたが、サマリア人は、生粋のユダヤ

人から迫害されているフィリポに共感しやすかったかもしれません。サ

マリア人もユダヤ人にいじめられていましたから。

 

フィリポは彼らにキリストの復活について伝えるのですが、サマリアの

人たちにとって興味があったのは、癒しとしるしでした。深刻な病気に

悩まされ、宗教的には「罪ある存在」「悪霊に取り付かれている」と決

め付けられた人たちにとって、自分たちに近づき、解放をもたらしてく

れるキリストのしもべは特別な存在だったと思います。

新約聖書を見ると、マルコの福音書だけでも36話。福音書全体では1

15話の癒しに関連する話が挿入されていると言われます。しかも、そ

れらの話で解放を味わった人たちのなかには、当時の社会では宗教的に

最下層の位置におかれた人たちが多数いました。ギリシャの神話などに

出てくる治療神でさえも近づいた記録がないような、社会的、宗教的に

危険視される深刻な病気の人たちにイエス様は近づき、彼らを解放し、

癒しました。イエス様の弟子たちも同様に、同じことを実施しています。

 

そういう重い病気の人や、「悪魔つき」と呼ばれ、嫌われていた病人に

は、誰も近づこうとせず、誰も同情の心も向けなかったのです。病気は

神の裁きと理解され、きっと身内の罪の刑罰だと考えられていたからで

す。

その疎外感、心の寂しさ、つらさは相当なものだったと思います。しか

し、イエス様と同じように、フィリポもまた、それらの人たちに近づき、

声をかけ、手を当て、神の祝福と癒しを祈り、宣言したのです。

そして、人々は、快方に向かいました。フィリポの行動の背後に神の愛

を見たに違いありません。

癒しの奇跡を経験し、自分も神にひとりの人間として認められている存

在だという喜びを味わったにちがいありません。

 

2)叱責

サマリアでの宣教活動の中で魔術師シモンという人が記録されています。

この人はフィリポの霊的な力に感心し、自分もキリストを信じて洗礼ま

で受けるのですが、使徒たちが手を置くと聖霊を授けることができるの

を見て、「金を払って聖霊を自由に授けることができる力を買い取り、

使徒たちと同じ力を持ちたい」と願い出るのですが、ペトロに叱られる

ことになります。

 

8:20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまう

がよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。

8:21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心

が神の前に正しくないからだ。

8:22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦して

いただけるかもしれないからだ。

8:23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしに

は分かっている。」

 

彼の心は、金の力に頼る生き方に固執していました。その心は正されな

ければなりませんでした。彼に必要なものは使徒による叱責であり、悔

い改めへの指導でした。サマリアの町の人たちは、シモンを偉大な神の

力を持っていると思っていましたから、彼に注意や叱責する人など皆無

だったと思います。

このシモンには、叱責という形で福音が伝えられました。「叱責と悔い

改め」は、使徒たちの権威に基づいて提示されました。背後にあるのは、

やはりその人に対する愛であり、神の恵みを本当に心に深くわかって欲

しいという願いからのものでした。

 

3)み言葉

8章の最後の場面では、場所が「ガザ」という場所に変わりますが、エル

サレムからエチオピアに帰る途中の女王に仕える高官(宦官)への宣教

が記録されています。この人はエチオピア人であり、神を畏れる異邦人

としてエルサレムで礼拝をしてきた帰り道でした。しかし、この人には

不安がありました。

すべての宦官が、そうだというわけではないのですが、女王に仕えてい

るとなると、去勢されている場合が考えられるからです。

旧約聖書申命記23章に

「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わること

はできない。」とあり、差別がありました。それは、彼の中では、小さ

なことではなかったと思います。

しかし、彼が読んでいたイザヤ書には

56:3 主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを

区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、

と。

56:4 なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り

/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら

56:5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにま

さる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消

し去られることがない。

と書いてあり、その数章前に宦官が馬車で読んでいた箇所があるのです。

苦難のしもべが身代わりの死を遂げるというイザヤ書53章のみことばは、

宦官の心を捉えたに違いありません。

社会的にも経済的にも恵まれていたとはいえ、人間としての自信を失っ

ていた可能性のある宦官に必要だったのは「あなたは価値ある存在です」

という権威ある言葉だったのではないかと思います。

あなたは、神の御子イエスキリストが身代わりに死なれるほど、価値あ

る存在なのですというみ言葉の説き明かしは宦官にとって心の躍る出来

事だったと思います。

 

福音は、受け取る人に合わせて、さまざまな形で届けられました。

癒しという形、叱責と悔い改めという形、また、み言葉の説き明かしと

いう形。

 

神の恵みは今でも、さまざまな形でもたらされます。

だからこそ、私たちも福音を信じることができたのです。

だからこそ、多くの人たちが恵みを知ることが可能なのです。

祝福がありますよういに。

関根一夫

  
 
< 前へ   次へ >